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Relativity
「あの女性は誰?」
姜維はよく覚えている。、鍾会が女性について興味を示したのはただこの一度だけであったから。
噂には聞いていたが、本当に女に興味ないんだなと思っていた矢先だった。
蜀の宮廷の女性たちは、敗者の習わしというと残酷だが、結局は戦利品として扱われる。
だが鍾会はそれに一切の興味を示さなかった。
そんな中での、一言だった。
「彼女はダメだ!」
姜維がいきなり言うと、鍾会は驚いたように目を見開いた。
「何がダメなんですか?」
「彼女は皇太子妃だ。死んだ友人の娘だ。」
「ああ、彼女が噂の、利口で美人の皇太子妃。あはは。確かに。」
そして鍾会はいじわるく笑って続けた。
「死んだ友人、じゃなくて恋人の、だよねえ?」
「いいか!話しかけるな!さわるな!おまえになど・・・」
「・・・何言ってるんですか? 私が触れたいのはあなただけですよ。」
くすっと鍾会は笑い、姜維は驚くより呆れる。
だが、次の瞬間鍾会が言った言葉は姜維を大激怒させた。
「ただ、子上様が好きそうなタイプだなーっと思って。」
「ま、まさかお前・・・彼女を・・・」
「うん、貢ぎ物にすれば評価高いかなー、とかね。あはははは。」
だが、姜維が殴りかかる前に、言った。
「冗談ですよ。」
姜維に対してはそう言ってかわしたが、鍾会は思った。
彼女は生き残ったら、間違いなくそうなるだろうねえ。
だから、使えるな、と。
そして一瞬目があった彼女は、彼に対してほんの少し微笑した。
そしていま、洛陽の静かな庭園が見える一室で。
「頼まれたのはただ一言、あなたに伝えて欲しいと。」
私はそのために洛陽に来たのだから、と。
死者との約束は反故に出来ませんしね、と。
「士季のために? 何故?」
「彼は真相を教えてくれたから。その薄謝・・・ってところかしらね。」
彼女はそこまでゆっくりと話した。
司馬昭は心の中で軽く舌打ちをする。
・・・なるほど。彼女の父親の殺害に関することを聞き出したのか
「そんな顔しなくても。」
彼女は司馬昭の表情を読んだのか、薄気味悪い微笑を浮かべていった。
「あなたには何もしないわ。それも約束のうちですし。言葉を伝えるだけ。」
悪い言い方をすれば蜀の残党、良い言い方をすれば、蜀というかつてあった国の皇太子妃・・・は、穏やかな口調で言った。人畜無害な優しげな表情から、確かに敵意は感じられない。
「どうやって聞き出した?あいつから。」
「向こうが先にその条件を出したの。聞き出したも何も、勝手にしゃべってくれたのですもの。」
司馬昭は考える。
彼女は、蜀の費文偉・・・当時、皇帝に次ぐ権力者だった者の娘。
そしてその権力者は、魏からの降将・郭循に殺害された。
費文偉殺害を郭循に指示したもの・・・それはおそらく、司馬師だっただろう。
だとしたら彼女の矛先は弟である自分に向くと思ったのだが、何故か向かない。
鍾会は、いったい何を言ったんだ?
「可哀想ですね。成都であんな死に方しなくても。国に戻ればそれなりに地位を約束されていたでしょうに、なんだってあんな風になってしまったのか・・・彼は私には理解できないわ。」
彼女は自分に無関係な事を話すように、淡々と話す。
「姜将軍のことも、気持ちはわかるけど・・・やっぱり私の理解を超える。男って、みんなああなのかしらね。」
「そうだな・・・」
無難な相づちをうちながら、司馬昭は考えた。
何を考えている?この女・・・・。
それこそ司馬昭は、彼女の意図することを探り当てようとするが見当すらつかない。
むしろ、本当に鍾会の遺言となった言葉を伝えるためだけに、それだけのために劉禅について洛陽まで来たのかというのか。
そんな素直な人間が、この世の中にどれだけいるのか。
「あらあ・・・」
ふと、彼女は外を見た。
開け放たれた引き戸の外は、満開の梅が咲いていた。
「先ほどからの良い香りはこれなのですね。」
にこっと笑って、そして言った。
「鍾将軍はね、あなたにごめんなさいって伝えてって言ったのよ。」
ごめんなさい・・・・ねえ。
司馬昭は面白くもなさそうに庭を見ていた。
先ほどまでその話をしていた女は、楽しそうに庭で梅の木を見ながら散策中。
そんな、当たり前の一言を言うために?というかむしろ、鍾会がその当たり前の一言しか言わなかったのが気に障ってたまらなかった。
これが許してくださいだったら、良かったか?
否・・・それはそれで、今さら何をと思ったかもしれない。
それらの反論をことごとく一蹴する、一言。
すでに答えを待っていない、許しすら待っていない死者の「謝罪」。
「おもしろそうですわね?」
王元姫がこれまた嫌みたっぷりに司馬昭に話しかける。
「聞いてたのか?」
「もちろんですわ。でも、士季殿はすごい。」
「何が?」
「あなたの好みを把握している上に、許しを請わない謝罪。死んでまですごい執念。」
「お前まで・・・」
「誉めてますのよ。そこまでピンポイントであなたの弱点を突ける人間はそうはいないのにって。」
わたくしも無理ですわ。
さりげなくそう言って、そして庭をうろつく女を見る。
「まあ、一つ言わせてもらって良いかしら?」
「ああ。」
「彼女は私の若い頃に似てますね。彼女だったら許せます。」
「何の話だ?」
「彼女なら戦利品として奪っても良い、と申しました。美人だし、頭もいい。なにより度胸がすばらしいと思います。蜀の宮廷人の中では考えられないくらいの度胸。すばらしいわ。男だったら長生きできなかったかもしれないけれど。」
「ああ、そうだな。」
「わたくしの顔色を見なくてもかまいませんのよ? 彼女ならね。」
自信たっぷりに笑い、司馬昭の返事を待たずに部屋の奥へ行ってしまった。
梅の花は、思い出させてくれる。成都でのあの日。
もう、彼の地では梅が咲き始めていた。
そんな夜、その木の下でこっそりと聞いた話・・・噂に聞く魏の将軍・鍾会の顔は、確かに月の下で見ても、ほれぼれするような美貌だった。これなら、何もなくても司馬昭とどうのこうの言われてしまうだろうな、などと思ったもの。
彼は無礼にも、皇太子妃である彼女の腕をつかむと、耳元に口を寄せて囁いた。
・・・君の父親の殺害を指示したのは子元様だよ。
・・・本当は姜維を殺したかったらしいけど仕方ないね。
内容は予想をしていたが、彼の口からいきなりこう来るとは思わなかった。
「てっきりあなたかと思った。」
「違うよ。それだったらおめおめとあなたに姿を見せたりしないですよ。」
そして、続けた。
「でも、子元様を早死にするようにあそこまで追い詰めたのは私なんだ。」
「あら裏切り者。」
「違うよ。・・・私なりに彼は邪魔だったんだ。」
「それは政治的?それとも痴情の縺れ?」
「さあねえ。」
にやにや笑う鍾会。
ああ、この人は。私的なものだろうが公的なものだろうが、邪魔なものはみんなそうやってきたわけね。そして、何でも手に入れてきたのね。今だって、邪魔な鄧士載を投獄して、自分の気に入った姜将軍にべったりですものね。
彼女はそう理解した。
「だから、あなたのかわりに復讐したのは私だよ? だから私の言うことも聞いて欲しいんだけど。」
それもまたすごい理屈ね。
そう言って彼の顔を見て断ろうと思ったが、言えなかった。
その屁理屈が史上最強の道理であるような、真摯な双眸が彼女を捕らえた。
「何かしら?」
おとなしく、聞くしかない。
「子上様に伝えてよ、ごめんなさいって。」
「あらー、殊勝だ事。」
「違うよ。」
鍾会は意地悪っぽく笑うと言った。
「子元様を殺しちゃってごめんなさい、だよ。」
「それも殊勝じゃなくて? 殺したことを今頃謝ったって。」
「だから言うんだよ。」
それで素知らぬ顔をしてその後十数年、そばにいて一番愛された。
だから。
あなたの愛した兄を殺したのは、あなたが一番愛した配下の者だよと、わざわざ知らせる。
「やな性格。」
「お互い様。自分の夫だけ姜維と一緒に死地に向かわせるくせに。」
「だって、みっともないでしょ?」
あっけらかんと言った。
「皇太子まで降伏して生き残りましたなんて、みっともなさすぎるでしょ。」
「でもあなたは死ぬ気なんか無いじゃないか。」
「愛してないもの。」
「政略結婚ってそんなもんでしょう」
「でも、女には結婚を断る自由は無いのよ。だから死ぬのを待ってるのよ。」
そして言った。
「じゃあ私からも一つお願い。姜将軍に伝えて。・・・ずっと好きでしたって。」
「まだ時間はある。自分で伝えた方がいいですよ。」
鍾会の言葉とは思えない正論に、彼女は思わず吹き出しそうになった。
「ううん、ダメ。今伝えたら、姜将軍に困る時間を与えてしまうでしょ。」
どうせ手に入れられないなら、伝えるだけで、考える時間などあげない。
そう、ぜったいに、手には入らないのだから。あの人は、いまでも父が好きで・・・。
いま、私は微笑しているのか、泣きそうな顔なのか。
「でも、あなたの方が幸せだ。」
「かもしれない。・・・いいわ。解ったわ。私がお伝えしましょう。」
そして取引は成立。
月が、明るかった。
花も咲いていた。
でも、冷たい夜だった・・・・。
梅の花を何本か手折り、それをもって彼女は司馬昭のところに戻ってきた。
「続きね。」
花の香りを愛でるように目を細めながら、彼女はゆっくりと、唯一彼を切り裂くことの出来る武器の準備をする。
「ごめんなさいの前に、言っていたことがあるのよ。」
「なんだ?」
「子元様を殺してしまってごめんなさい・・・ですって。」
瞬間、司馬昭は凍り付いた。
唯一切り裂くことの出来る武器。それは鍾会の言葉。
彼女は気づかないふりをして、司馬昭が口を開くまで待った。
少しの後、絞り出すような声で言った。
「本当にそう言ったのか?」
「本当。」
黙っててあげても良かった。思ったよりも自分や蜀の人間を丁重に扱ってくれる司馬昭を見てそう思ったのも真実。
だが、蜀漢という憂いが消えたあなたを見たら、そこまで言ってやりたくなった。
本当は黙っていても良かった。そんな義理はなくとも。
だが彼女は、つい言ってしまった。
舞い散る花びら。真っ白な梅の、満開の花びらが風と炎の中に散っていく様子。
あれは、地獄か極楽か。
あまりにも美しく、そして哀しく、恐ろしい光景であったのだけは確かであり・・・それが、成都を見た最後だった。
燃え上がる炎は美しく、だが恐ろしく。
姜維と鍾会は、どのような殺され方を、あるいはどのような結末を望んで、迎えたのか。
でも、鍾会は約束通り自分の言葉を伝えてくれたと思う。
鍾会に、姜維に伝える言葉も気持ちもない。もしあるとしたら、それこそ「ありがとう」だけだ。
姜維は、それこそ恨み言から何からあるだろうが、すべてを精算するつもりなのだろうから、彼からも鍾会への言葉は無いだろう。
二人の最期を知った衛カンが、郤正に報告しているのを聞いた。
悲惨な結末・・・それでも。姜維は皆に立派だったと言われ、安心した。そしてほっとしたのも事実。
でも鍾会は・・・・。
彼を解ってやれる人間は、いなかった。
少なくとも周囲にはいないし、あるいは彼は、誰にも解って欲しくなどなかったのかもしれない。
だから、最初は、伝わらない想いを伝えてあげようとだけ思った。
後悔も何もない、そこまでして得たかったんだという悲痛さだけはわかったから。
鍾会にとっては、そこまでして司馬昭を手に入れたかったんだって事。
でもそれは同時に、司馬昭を刺し殺すような言葉でもあった。
そこまでしたのは、たぶん・・・
「あなたは結局彼が不要になった。・・・だから、ああなるようにけしかけたの?」
「・・・何故そう思う?」
「何故かしら。でも・・・だから彼は死んだのではないのかしらって。」
「・・・・・・」
「死と引き替えに彼があなたを刺した言葉は見事だわ。あなたは真相を問いただすことも出来ない。」
そう言うと、彼女は笑った。
「どちらにしろ、あなたは死ぬまで苦しみ続ける。生きている限りずっと気持ちのどこかには引っかかる。そして誰も信用できなくなる。」
あなたたちに何があったかは知らないけれど、鍾会はずっとあなたを思い続けてああなったんでしょうね。
可哀想な人たちね・・・。
ふと、彼女はそう思った。
彼女の恋は、手の届かないところにあった。だからこそ、自分の中で折り合いを付けられる。
でも。
彼らは目の前で、手の届くところで、それを育てることも自分たちで断ち切ることも思うがままだったはずなのに、そうしなかった。お互いに甘え、お互いを見下し、お互いを見誤ったということか。
それはなんとわがままで、贅沢なことだろう。
美しかったはずのものすら、傷つけあいながら恐ろしいものへと変えていく。
それも、愛するが故だとしたら、この人たちは、なんて・・・・
「なんでお前がそんな顔をする?」
気づくと、彼女は先ほどのように笑ってはいなかった。むしろ、泣きそうな顔をしていた。
「・・・人を憎むのも、傷つけるのも、けっこう痛いのよ。あなたは知らないでしょうけど。」
それだけ言って、顔を背けた。
鍾会の言葉は、諸刃の剣だった。
そう、人のことは言えない。
姜維のことは美しい思い出だ。でも、自分は皇太子に何をした?
愛する時間も、理解をする時間も、信頼し合う時間もあったのに、最初からすべてを放棄していた。
だって、仕方がない。姜維を愛していたから。
でも、私は手に入るものを手に入れようとしなかった・・・欲しいものが手に入らないなら何もいらないと拒絶した。
それは、なんでも持っていたくせに捨てたこの男と、何が違うのだ?
成都を出て、はじめて流した涙は誰のためなのだろう?
「伝えたわ。・・・もう、疲れた。」
「・・・・・・」
司馬昭には解った。自分へ向けていった言葉に傷ついた彼女。
彼女の過去など知らないが、何か自分に刺さったのだろう。人を刺すときは自分も怪我をするということを知らなかった、人を傷つけたことのない彼女の無垢な心が、鍾会に汚されたも同然。その血が涙となって、彼女のほほに一滴だけ流れた。
・・・結局、生きている限り人を傷つけたどころか、死んでまで・・・
司馬昭は深くため息をついた。
自分の愛した者の異常さと、そして自分に。
それを思い知らせてくれた彼女を突き放したかった。劉禅に返してやろうとも思った。
だが、鍾会の最期の言葉を伝えた人間。
それだけで、嫉妬とも愛情とも、なんともつかない感情が支配する。
少なくとも、手放したくは無くなった。
そして彼女も。
自分には美しい想いと、すべてを見届けた満足感が残った。その上、傷ついた。
でも。それでも、この哀れな男には、最期、何が残るのであろうか・・・それを、見たい気もした。
・・・本当に何もかも失ったのは、私? それともこの男?
それを、高見から笑うことができるほど不幸な人生ではなかったことを、自分は感謝をしなければならないのだろうか。
たった一つのためにすべてを失った自分と、手にはいるはずなのに何もかも失った司馬昭。
私たちの、なにがちがうのか。
「私には一つだけ残ったものがあるわ。」
「そのようだな。でも勘違いするな。私はまだすべてを失っていない。」
「そうね。あなたには蜀の国が残った。」
国など、何の引き替えになろうか・・・彼女は思ったが、一番感じているのは司馬昭ではないか。
「劉禅の元に戻るか?」
「ご随意に。」
「では返さない。・・・これで二つだ。」
司馬昭はそう言った。だが、彼女はもうそれに答える気は無かった。
彼女は、手元の梅の枝を指先で折った。
たった一つを大切にしようと、何故思わないのだろう、この人は・・・そう思ったけれど、何も言わなかった。
・・・鍾将軍、あなたの言葉を伝えたけれど、あなたの真意は伝わったのかしら・・・
「最期にこんなことをしながら言うのもなんだけど、聞いてくれる?」
姜維の腕の中で、鍾会は言った。
「皇太子妃はあなたのこと好きだったんだって。」
「・・・ああ、知ってたよ・・・」
姜維はため息をついた。そんな彼に、鍾会は続ける。
「知ってたのにしらんふりしてたんだ?」
「応えられないから。」
ああ、そういう形もあるんだね、と鍾会は思った。
幸せそうで、どこかわがままな彼女・・・それは、全部姜維を思う故だったんだろうなと。
そして姜維も、それを知っていてもどうすることも出来ない。
彼もまた、別に愛した人がいたから。
それでも。
喧噪の中、静かに鍾会はつぶやいた。
「彼女は幸せだっただろうね。」
「何故?」
「手の届かないもののほうが美しいものとして残るから。」
Fin 2007.Jun.18
相対性理論を読んだら思いついた。でも疲れた。皇太子妃が「疲れた」と言ったのは、たぶん相対性理論による頭脳の疲れ・・・な訳はない。
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